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躍進企業REPORT

昌和印刷:印刷を核とした店頭ディスプレイ分野で差別化

印刷ジャーナル 2011年7月25日
和田恭昌会長
和田拓也社長
本社工場
製品サンプル
第2工場
東京支店

 昌和印刷(株)(本社/大阪市平野区・和田拓也社長)は来年創立50周年を迎える。この半世紀の歴史と実績を踏まえて同社は今、次代に向けた新たな発展への起点とする構想が固まっているようだ。創業間なし、一般商業印刷市場の激しい競争環境から創業者和田恭昌氏(現会長)は、印刷を核としながらPOPディスプレイ分野へ方向を転換。以来、近畿圏を中心に企業基盤を固めた上で東京進出を果たして実績を積み上げてきた。この間には「好調であっても組織拡大はしない」という堅実経営方針が基本にあった。将来に備えた企画・提案力強化を戦略とし、そこへ小回り性を発揮して利便性を高めながら得意先貢献度を高めてきた。その原動力となったものは何か。そこで今回、近年の厳しい情勢下にあっても右肩上がりの業績で推移してきた同社の歩みと今後の展開について和田会長、社長に話を伺った。

苦境から学んだ堅実路線

 昌和印刷は、1962年(昭和37年)、現、恭昌会長が大阪経済大学卒業後、阿倍野区西田辺の一角に創業したことに社歴は始まる。
 独立起業のきっかけは大学当時、印刷関連会社でアルバイトしたことにあり、そこで知った得意先印刷会社の発注ぶりが
業界へ興味を抱いた始まりであったようだ。銀行と化粧品会社への就職が決まっていたものの最終的には印刷の道を選んだ。
 この選択には付録が付いている。当時の大学卒初任給が1万2,000円程度の中、実力によって月10万円ほどの収入があり、群を抜く稼ぎ額が印刷業界へ魅力を感じたひとつでもあり、また、アルバイト当時、印刷機材商社の購買会へ参加する機会を得、そこで見た印刷機械の素晴らしさに魅かれたことなどが将来を決定づけたようだ。
 因みにこの頃恭昌会長は、アルバイト先の会社社長夫婦から仕事ぶりや人柄に絶大な信頼が寄せられ、婿養子の話しが出るなど、後継者として白羽の矢が立てられたようだが結局は親の反対もあって断ったという。営業、経営両面の素質を買われてのことだ。
 そんな経緯を経て1962年、全くの素人ながら印刷人としてスタートした。和田会長22歳だった。
 創業当時は同業者から注文を貰うという状態だった。そうこうする内にアルバイト当時の誠意を買われて北浜郵政局からの仕事も受注するようになり、徐々に会社は走り出した。また、創業地付近には宅建販売業者も多く、チラシ類なども順調に受注して実績を上げていった。
 1964年(昭和39年)、法人化し、印刷インキ・機材メーカーに勤務していた次男庄司氏を迎い入れ、さらにその後、大学を卒業した3男の耕治氏を迎え、経営・営業・工場それぞれを担当して昌和印刷の屋台骨を支える3本の矢が束ねられ、創業から10年後の1972年、現在地に本社工場を建設して移転した。
 創業当時のチラシから一般商業印刷分野の激しい競争環境から同社は、1977年に印刷を核としながら販促商品分野へと大きく舵をきっている。今で言う「業態変革」を、いち早く実行したことが同社の将来を決定づけしたわけだ。「競争は激しく、納期も無い状態。おまけに不渡りは喰らう。これでは将来に希望が抱けない」と社の方向転換を決断したという。
 「あの時転換していなかったら恐らく今の昌和印刷は無かっただろう」と当時の状況を語る恭昌会長、それから基盤づくり、安定化へと奔走の日々を過すことになるが「思えば創業当時はバカ正直というか、借金の踏み倒しには遭う。当時業界を回っていた契約紙挿し職人は前借翌日から出勤しない。営業マンは不正な仕事をする等々、人には随分裏切られた」と苦笑する。ある時には年商に相当する額を被害にあい、5〜6年は多額の借金生活を余儀なくされたこともあるという。こうなると銀行や周囲の人々に敬遠されるようになる。以来ご自身では一切手形は発行しない方針で、そんなことがあって、お金の有難さを知り、しっかりと人を見ること。物事は吟味する。また、同業者勤務経験者は雇い入れしない。いくら好調であっても規模は拡大せずに人材を含めた将来計画に投資するなど、かつての苦い経験で叩く石橋は時には2度3度というように、堅実経営に必要な徹底した財務、原価・コスト管理を成長エンジンとして研究・開発・行動力によって昌和印刷は逞しく不況を乗り越えてきた。
 「かつての苦い経験が私を真の経営者にしてくれたと思っている。振り返って間違いなかった」と、恭昌会長は感慨深げにこう語る。
 3年前、琵琶湖のホテル紅葉に協力会社180名を一泊招待して開催した創立45周年記念式典席上、社長引退を表明し、長男拓也氏へのバトンタッチとさらなる協力を要請したのも記憶新しいところで、社員と協力会社を大切にしてきた人でもある。
 「健康にも社員にも、そして後継者にも恵まれた」という会長、とくに社員に対しては福利厚生面を充実させ、慰安旅行は国内・海外交互の実施、さらに毎年甲子園球場ボックス席数席を契約確保して配布してきたほか「時には社の嫌な話しや不満の声も聞くこともあるだろう。それにも拘わらず毎日気持ち良く社へ送り出してくれている奥さんへの気持ち」と入社10年を経た社員の奥さんの内助の功を讃えてダイヤモンドを贈ってきており、これは現在にも継承されている。これらひとつひとつが社員のヤル気を喚起させ、しっかりと日常業務の中に労使双方の信頼関係を築いており、現在では社員1人ひとりが自社の将来を描き、語り、研究しあう企業風土が出来上がっている中小企業の強みを持っている。

好調な時こそ慎重に

 そんな同社に20年ほど前からボツボツ定年退職していく社員が出てきた。「長年にわたり真心を込めて手ほどきしてきた卒業生を送り出す気持ち」と恭昌会長は、これにも喜びを隠し切れない様子で「今日あるのもこの人達のお陰げ」と感謝の意を示し「社として誠意をもって応えていく」という。
 福利厚生の充実、将来投資、定年者の優遇処置、それもこれも、堅実経営路線をとってきたことからできるもので、過去の業態変革と努力の成果は、業績の伸展、好調の大きな波を起こしたこともあるが、前記の通り「一度大きくすると元には戻しづらい。身の丈に合った経営を」と、バブル当時の倍々伸展にも他所の拡張・拡大を尻目に同社は、増産体制や規模の拡大には一切手をつけずに社員教育や優秀人材の確保など、人・モノ・金・情報を有効活用して企画・提案力の強化に資源を投入しながら小ロット物へ強みを発揮する体質を維持してきた。いわばニッチの世界で「小回り性」を激しい競争下での戦略としてきたわけだ。
 ところで恭昌会長は、1962年、創業とともに大阪府印刷工業組合へ加盟。以来、会費を払うだけの組合員として通してきたが、1990年、推されて摂陽支部支部長に就任したのを皮切りに常務理事兼任の支部長、常務理事、そして副理事長を歴任。とくに副理事長在任中は共済委員会担当副理事長として大きな成果を納めて本部表彰を受ける実績を残している。
 現在昌和印刷は、企画関連からPOD生産、CAD、印刷生産、表面ラミネート、合紙、仕上げ加工一切を手掛けるほか、組立加工や物流部門など12の部門で社を構成しており、この内、物流部門では大阪府羽曳野市に独自のセンターを構築し、一括納品はもとより、個別配送、アッセンブリなど様々な納品形態に対応している。
 東京進出は11年前のこと。企画提案と小ロット物に小回り性を活かして確実に関東市場に実績を積見上げてきた。
 入社14年目を迎える和田拓也氏は、大手商社勤務を経て2002年に2代目社長に就任し、現在、東京・大阪を総括して担当しているが「学生時代にアルバイトで手伝ったことがあるが、当初は一般印刷を手掛ける普通の印刷会社と思っていた。実はディスプレイ分野を主力としていたわけだが、差別化という点で優位性をもつ会社に育て上げてもらった決断と実行力、その先見性に感謝している。経営理念を受け継いでいくのが私の使命だと認識しているが、昨今の情勢には厳しいものがあり、時流に沿うことも大切である。売れるモノづくりに対して自社として何ができるのか。これまでの理念と実績を大切にしながらさらに強みを助長させていきたい」と今、3年計画を推進中である。社の基本方針はブレルことなくしっかりと今日に受け継がれている。
 本年5月には紙を素材とした吊り下げ・カウンター兼用ディスプレイ商品特許も取得し、これまで別々に制作していたユーザーの商品コスト、時間コスト削減に貢献するものとしてプロモーション関連情報(店舗側インターフェイス)の今後の展開に期待される。
 創立50周年を来年に控えて昌和印刷は今、外部専門家を抱き込んでホールディングス制への移行を検討中。印刷を核として物流センターなどの関連各部門を体系化する計画だ。
 社員研修、部門別研修を通して社員自らが将来の夢を描き、戦略を樹てて行動する、そんな昌和印刷の今後の展開が期待される。